目黒駅周辺散歩ーその1-行人坂

明治の小説家・国木田独歩はその名著「武蔵野」の中で、武蔵野の範囲について次のように語っている。

 

「僕の武蔵野の範囲の中には東京がある。しかしこれはむろん省かなくてはならぬ。なぜならば我々は農商務省の官衙(かんが:官庁、役所)が巍峨(ぎが:高く険しい)として聳えていたり、・・・・このようなわけで東京はかならず武蔵野から抹殺せねばならぬ。しかしその市の尽くる処、すなわち町外れはかならず抹殺してはならぬ。僕が考えには武蔵野の詩趣を描くにはかならずこの町外れを一の題目とせねばならぬと思う。たとえば君が住まわれた渋谷の道玄坂の近傍、目黒の行人坂、また君と僕と散歩したことの多い早稲田の鬼子母神あたりの町、新宿、白金・・・・」

 

 
ab.JPGこのように独歩は、武蔵野の詩趣を良く表わした場所のひとつに目黒駅西口から下りて行く「行人坂」の名を挙げているほか、武蔵野の南限は下目黒であるとしている。要するに、武蔵野の南境は下目黒で、官庁の建物などが聳え立つ東京市中は武蔵野に入れてはいけない、と独歩は喝破しているのである。

 

目黒の「行人坂」は左の写真のように、目黒駅西口から三井住友銀行目黒支店脇を下る急な坂道で、所在は下目黒1丁目である。江戸時代から行人坂は富士山の眺めが良いことで知られていた。坂の途中左手に大圓寺を見て目黒川に架かる太鼓橋に至る。昭和30年位まではこの川に鮎が遡上し、静流を利用した友禅流しが眺められたと言われている。川沿いに雅叙園アルコタワーが聳えている。雅叙園は昭和6年に建てられた絢爛豪華な建物故に「昭和の竜宮城」と呼ばれていた。右下の写真は目黒川とアルコタワー(左手前)である。

 

DSCN1176.JPG江戸時代に権之助坂が開かれる前は、行人坂は江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。寛永の頃、湯殿山(出羽三山の奥の院と言われ、三山参りの修験者の最終目的地であった。古来「語るなかれ聞くなかれ」と口外禁止の地とされていた。芭蕉も「奥の細道」に三山巡礼の句々を記しており、その一つに「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」と詠んでいる)の行者が坂の中腹に大日如来の堂を建立し、大圓寺と号して修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったので「行人坂」と名付けられたと伝えられている。

                                                                    

またこの坂は、明暦3年(1657年)の「明暦大火(俗称“振袖火事” )」、文化3年(1806年)の「丙寅(ひのえとら)大火(俗称“車町火事”)と共に江戸三大火事の一つの「行人坂大火」とも関連して知られている。

 


daiennji22.JPG 「行人坂大火」は明和9年(1772年)2月、行人坂の大圓寺から出火、延焼し、3日間も燃え続けたというもので、盗みを企てた寺の坊主の放火が原因であった。明和9年の出来事であったので、誰言うとなく「めいわくの年」だと言い触らされ、幕府は年号を「安永」と改めたと言われている。現在の大圓寺を写真(上)に示す。

                                                         院長